2011年12月11日
朝の祈り 夜の雄叫び 奈良長谷寺にて


「・・・ならば、奈良へ行こう。」
朝もや のように
気持ちが たなびいていました。
先月は信州の山で修研者に出会い
彼らの眼差しの淀みの無さに心を洗われました。
あのような眼差しには
この欲望の渦巻く俗世に潜む限り
縁遠いかな・・・
とは言え 月に一日ぐらいは
冷えた魂を暖めに出なくては・・
そんな訳で 12月の旅路は
奈良方面かなと考えていました。
そこへ またしても、あの方(私の人生の曲がり角で待ち伏せる
大学時代のT、先輩)が
酒の席で
「奈良はいいなあ・・京都にはない
時間のたおやかな移ろいガ、、いいんだよ!
お寺では 長谷寺だね・・
花寺で有名だけれどね、夜の灯明がいい。そして早朝が
感動だよ。学僧のあさのお勤めの読経が谷間に響きわたってねえ、、。」
私はこういう類の話しに めっぽう弱い。
そしてぐずぐずは長いが、決めたら一直線のタイプ。
長谷寺行きを決めていました。
夜の灯明は 震災への気遣いから
消していたので見る事はできませんでしたが
7時ごろから、寺の方から ほら貝が鳴り渡り
若い男たちの雄叫びが聞こえてきました。
門前の宿、大和屋のお上さんによると
「学僧の僧侶が毎晩 声の訓練でしょうね。ほら貝も鳴るまでは難しいそうですよ。」
しばらく闇の彼方から轟く僧侶の大きな声と威勢の良いほら貝に
聞き惚れていました。
翌朝 長谷寺の「祈りの回廊」に加わってみました。
20余名のくろと茶色の袈裟をまとった僧侶たちが
12面観音像の本堂で 読経をあげます。
たった一人の参加者でしたが毎朝 毎朝 そして
雨の日もこうして朝が繰り返される。
煩悩に翻弄され、小刻みな時間に身を切り刻まれる
暮らしが一方で繰り返されている私の日々には、
いったいどんな意味があるのだろう?
妄想 迷い かなしみ 恨み ねたみ 嫉妬
もろもろの苦しみを携えて あなたは生きていくのでしょうが
私も含めて、祈りを小声でささやくだけ。
祈りは この僧侶たちのように
天にまで届けられるように お腹の奥から
からだと心の全てを用いて
今日の始まりへ はっきり伝える事なんだなあ。
悪いこと願わないんだもの。
心がスッキリした 奈良長谷寺のたびでした。
