2011年12月28日
2011年最後の夕陽を見てきます。

今年は 小さな物捨離を繰り返してきたので
とりたてて捨て去る大物は
これと言ってないわたしです。。
そのせいか
姿も暮らしも無駄が取れ、やせ細り気味のようで
暮れの挨拶に出向いた先では
「お痩せになって、大丈夫?」
と、心配までしていただきました。
が、当方すこぶる元気。一年を振り返っても
たった一夜だけ発熱したくらいであります。
さて 一昨年の大晦日
その歳最後のサンセットを
沼津港のビュウオで観たのを思い出し
今年も晦日の夕陽を見に行く事にしました。
今年はどんな感慨に包まれて 暮れ行く最後の夕陽を
見るのなあ?
31日の天気が気になりだしました。
初日出を拝むのとはひとあじもふたあじも違う
時間を体験できますよ。
海の彼方へ、去りゆく夕陽はね
さながら、今年一年が沈んでいくようで
そこに居合わせた人たちは
ひとりひとりが「独り」になって
最後の日没を見つめているのが感じられます。
やけに寡黙なひとときであったのを
おぼえています。
夫婦であっても恋人同士であっても
独りの者であってはなおさらに・・・・
あの、夕陽をまえにして
一様に押黙っていく様子は
味わい深いものがあります。
行ってみると解るのですが
太陽は思いのほか早く沈んでゆきます。
そのわづかな時間内に、一年365日の記憶を
呼び起こして振り返るなんてとっても不可能。
夕陽を見つめているのか
夕陽に照らされているのか
そのどちらでもなくてね
仕方なく取り残されていくような、、、
うまくいえないのですが
ちっちゃな自分と、久し振りに出逢っているんじゃないかなあ。
わたしにはそんな風におもえます。
夕陽は最後の5分間ほどを
本当の夕陽となって
激しく燃えます。
その時
人の姿は
オレンジ色をしています。
不思議なくらいきれいですよ。
そんな刹那さ漂うビュウオで
今年最後の サンセット!!
いいですよ~。
あなたも是非どうぞ。
2011年12月11日
朝の祈り 夜の雄叫び 奈良長谷寺にて


「・・・ならば、奈良へ行こう。」
朝もや のように
気持ちが たなびいていました。
先月は信州の山で修研者に出会い
彼らの眼差しの淀みの無さに心を洗われました。
あのような眼差しには
この欲望の渦巻く俗世に潜む限り
縁遠いかな・・・
とは言え 月に一日ぐらいは
冷えた魂を暖めに出なくては・・
そんな訳で 12月の旅路は
奈良方面かなと考えていました。
そこへ またしても、あの方(私の人生の曲がり角で待ち伏せる
大学時代のT、先輩)が
酒の席で
「奈良はいいなあ・・京都にはない
時間のたおやかな移ろいガ、、いいんだよ!
お寺では 長谷寺だね・・
花寺で有名だけれどね、夜の灯明がいい。そして早朝が
感動だよ。学僧のあさのお勤めの読経が谷間に響きわたってねえ、、。」
私はこういう類の話しに めっぽう弱い。
そしてぐずぐずは長いが、決めたら一直線のタイプ。
長谷寺行きを決めていました。
夜の灯明は 震災への気遣いから
消していたので見る事はできませんでしたが
7時ごろから、寺の方から ほら貝が鳴り渡り
若い男たちの雄叫びが聞こえてきました。
門前の宿、大和屋のお上さんによると
「学僧の僧侶が毎晩 声の訓練でしょうね。ほら貝も鳴るまでは難しいそうですよ。」
しばらく闇の彼方から轟く僧侶の大きな声と威勢の良いほら貝に
聞き惚れていました。
翌朝 長谷寺の「祈りの回廊」に加わってみました。
20余名のくろと茶色の袈裟をまとった僧侶たちが
12面観音像の本堂で 読経をあげます。
たった一人の参加者でしたが毎朝 毎朝 そして
雨の日もこうして朝が繰り返される。
煩悩に翻弄され、小刻みな時間に身を切り刻まれる
暮らしが一方で繰り返されている私の日々には、
いったいどんな意味があるのだろう?
妄想 迷い かなしみ 恨み ねたみ 嫉妬
もろもろの苦しみを携えて あなたは生きていくのでしょうが
私も含めて、祈りを小声でささやくだけ。
祈りは この僧侶たちのように
天にまで届けられるように お腹の奥から
からだと心の全てを用いて
今日の始まりへ はっきり伝える事なんだなあ。
悪いこと願わないんだもの。
心がスッキリした 奈良長谷寺のたびでした。
